本当に素晴しいものは市場に流通しない
日頃市場経済を擁護しておきながらこんなことを言うと身も蓋もないのだが、本当に素晴しいものは市場に流通しないものである。広告を頼りに不動産を探しても、ろくな物件が見付からないが、知人の住まいを訪ねると、広告に出ていたどの物件よりもすばらしかったりする。そのような物件は、広告を出すまでもなく、次の借り手なり買い手が見付かっているからである。本当にもてる人は合コンになど行かない。すぐに売り切れるため、合コンになど行く必要がないからである。一流の料理店は、市場で仕入れるのではなく、知り合いの漁師や農家から最高の食材を直接仕入れる。本当に仕事のできる人は、エージェントに頼らずに、知人からの紹介によって、自分で転職先を見付けてしまう。求人情報誌を参照することなどない。極論すれば、公になっているものなど、所詮その前に買い手のつかなかったものか、あるいは大量生産品であるが故に多くの人に知れ渡っているだけに過ぎない。世の中には大量生産品ですぐれたものはあまたあるが、資源に制約がある以上、本当に素晴しいものを大量生産することは難しい。
素朴に考えると、これらは皆勿体ないことをしているように見える。プロスポーツ選手のようにフリーエージェントの権利を行使して自分の価値を計る方が、より良い条件で取り引きできるはずなのに、敢えてそうせずに狭い範囲での取引に終始している。何かうまい説明のしかたはないだろうか。
まず思いつくのは、上物は数が少ないということである。多数の売り手と多数の買い手との間のせめぎ合いによって価格が形成されるというわけではない。しかしそれでも、eBayとかYahooオークションみたいな、誰もが広く利用できるようなオークションを利用すれば、最も高い値段をつけた人が落札できるはずである。だから、売りに出すときに広告を出すとか、オークションに出品するくらいのことはしても良さそうである。にも関わらず、そのような形で公になることはない。
上物は数が少ないからサンプルサイズが乏しいせいで価値がわかりにくいのだ、非対称情報のせいで市場が成立しないのだという考えにしても、だからこそオークションで競りにかけることに意味があるわけだし、特に共有価値オークションなら、最も過大評価した人が落札する仕組だから、売り手にとっては都合が良いはずである。転職市場のように、売れた後で長い付き合いをする場合には、過大評価されるのも考えものだが、少なくとも競りにかけることによって平均値を知ることならできるはずである。
では、市場参加者のすべてが同じように情報を持っているわけではないとするとどうだろうか。本当に価値のわかる人が自分の周辺にしかおらず、市場に出してもまともな値段がつかないなら、わざわざ市場に出すまでもない。やっても無駄なことなら最初からやらないのが合理的である。おそらく、普段からその人なり、その人の持つ物なりに接していて初めて本当の価値がわかる場合には、そうなるだろう。普段から接している人は十分な情報を持っている反面、そうでない人は情報を持っていないので、期待値でしか評価できず、レモンの市場と同様の論法によって、期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。それを所与とすると、市場に流通するものの期待値が下がるので、同様に期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。この論法を繰り返すことによって、「普段から接していないと価値がわからないもの」が市場から消えてしまう。
振り返ってみると、本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接している人でないとわからない。だからこそ転職の際には上司の推薦状を3 通求められるわけだが、推薦状に書かれた内容を信用するためには、推薦状を書く人のことをよく知っている必要があるため、狭い範囲でしか流通しない。人柄の良さにしても同様である。不動産の価値にしても、投資目的なら相場を読めるが、消費目的なら、本当の価値は住んでみないとわからない。
しかし、その論法を用いると、「普段から接していないと本当の価値のわからないもの」とそうでないものの境界はどうなっているのかという問題が生じる。本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接していないとわからないだろう。しかしさほど仕事のできない人であっても同様の理屈が成り立つはずである。一体どこに違いがあるのだろうか。上記のストーリーだと「身の周りで買い手の見付からなかったものが市場に放出される」ということになるが、なぜ上物には買い手が見付かり、そうでないものは買い手が見付からないのだろうか。別の言い方をすると、なぜ平均的なレベルのものに対しては市場が存在するのだろうか。
おそらく、平均的なものはサンプル数が多いために既に評価が確立しているのだろう。「その他大勢」の一人なら、「その他大勢」というモノサシを適用すればよいので評価するのは簡単である。では「その他大勢」の市場がなぜ存在するかといえば、たまたま市場があるが故に市場に流通させることができるということなのだろう。鶏が先か卵が先かみたいな話だが、そもそも市場経済の成立というのは歴史的なものであり、なぜ市場が存在するのかという問いに対しては、たまたま存在するとしか答えようがない。
サンプルサイズが決め手ということなら、「本当に素晴しいものは市場に流通しない」のと同時に、分布のもう一方の端である「全くろくでもないものも市場に流通しない」と言えそうな感じがするがどうだろうか。たしかに「どの程度ろくでもないのか」についての情報が非対称だが、しかしこの場合には、真の価値が買い手の期待値を上回るものは市場に流通せず、そうでないものが市場に流通するということになってしまうので斉合的ではない。品質が低い場合であっても、売り手が情報を持っており買い手が情報を持っていないという状況は同じだから、きれいに反転させることができず、したがって同じストーリーでは説明できない。実際には、価格がつかないくらい価値が低いものは、タダで引き取ることができるから、物理的には流通しうる。段ボールや空き缶も単独ではゴミだが、大量に集めると使い道が生じるので、お金を出して引き取る会社が出てくるが、材料費というよりもむしろ手間賃だろう。労働供給の場合は、留保賃金を下回る賃金では供給が生じないので、市場で流通しないが、そういう場合には流通しないのが効率的な資源配分なので、敢えて気にするまでもない。
素朴に考えると、これらは皆勿体ないことをしているように見える。プロスポーツ選手のようにフリーエージェントの権利を行使して自分の価値を計る方が、より良い条件で取り引きできるはずなのに、敢えてそうせずに狭い範囲での取引に終始している。何かうまい説明のしかたはないだろうか。
まず思いつくのは、上物は数が少ないということである。多数の売り手と多数の買い手との間のせめぎ合いによって価格が形成されるというわけではない。しかしそれでも、eBayとかYahooオークションみたいな、誰もが広く利用できるようなオークションを利用すれば、最も高い値段をつけた人が落札できるはずである。だから、売りに出すときに広告を出すとか、オークションに出品するくらいのことはしても良さそうである。にも関わらず、そのような形で公になることはない。
上物は数が少ないからサンプルサイズが乏しいせいで価値がわかりにくいのだ、非対称情報のせいで市場が成立しないのだという考えにしても、だからこそオークションで競りにかけることに意味があるわけだし、特に共有価値オークションなら、最も過大評価した人が落札する仕組だから、売り手にとっては都合が良いはずである。転職市場のように、売れた後で長い付き合いをする場合には、過大評価されるのも考えものだが、少なくとも競りにかけることによって平均値を知ることならできるはずである。
では、市場参加者のすべてが同じように情報を持っているわけではないとするとどうだろうか。本当に価値のわかる人が自分の周辺にしかおらず、市場に出してもまともな値段がつかないなら、わざわざ市場に出すまでもない。やっても無駄なことなら最初からやらないのが合理的である。おそらく、普段からその人なり、その人の持つ物なりに接していて初めて本当の価値がわかる場合には、そうなるだろう。普段から接している人は十分な情報を持っている反面、そうでない人は情報を持っていないので、期待値でしか評価できず、レモンの市場と同様の論法によって、期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。それを所与とすると、市場に流通するものの期待値が下がるので、同様に期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。この論法を繰り返すことによって、「普段から接していないと価値がわからないもの」が市場から消えてしまう。
振り返ってみると、本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接している人でないとわからない。だからこそ転職の際には上司の推薦状を3 通求められるわけだが、推薦状に書かれた内容を信用するためには、推薦状を書く人のことをよく知っている必要があるため、狭い範囲でしか流通しない。人柄の良さにしても同様である。不動産の価値にしても、投資目的なら相場を読めるが、消費目的なら、本当の価値は住んでみないとわからない。
しかし、その論法を用いると、「普段から接していないと本当の価値のわからないもの」とそうでないものの境界はどうなっているのかという問題が生じる。本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接していないとわからないだろう。しかしさほど仕事のできない人であっても同様の理屈が成り立つはずである。一体どこに違いがあるのだろうか。上記のストーリーだと「身の周りで買い手の見付からなかったものが市場に放出される」ということになるが、なぜ上物には買い手が見付かり、そうでないものは買い手が見付からないのだろうか。別の言い方をすると、なぜ平均的なレベルのものに対しては市場が存在するのだろうか。
おそらく、平均的なものはサンプル数が多いために既に評価が確立しているのだろう。「その他大勢」の一人なら、「その他大勢」というモノサシを適用すればよいので評価するのは簡単である。では「その他大勢」の市場がなぜ存在するかといえば、たまたま市場があるが故に市場に流通させることができるということなのだろう。鶏が先か卵が先かみたいな話だが、そもそも市場経済の成立というのは歴史的なものであり、なぜ市場が存在するのかという問いに対しては、たまたま存在するとしか答えようがない。
サンプルサイズが決め手ということなら、「本当に素晴しいものは市場に流通しない」のと同時に、分布のもう一方の端である「全くろくでもないものも市場に流通しない」と言えそうな感じがするがどうだろうか。たしかに「どの程度ろくでもないのか」についての情報が非対称だが、しかしこの場合には、真の価値が買い手の期待値を上回るものは市場に流通せず、そうでないものが市場に流通するということになってしまうので斉合的ではない。品質が低い場合であっても、売り手が情報を持っており買い手が情報を持っていないという状況は同じだから、きれいに反転させることができず、したがって同じストーリーでは説明できない。実際には、価格がつかないくらい価値が低いものは、タダで引き取ることができるから、物理的には流通しうる。段ボールや空き缶も単独ではゴミだが、大量に集めると使い道が生じるので、お金を出して引き取る会社が出てくるが、材料費というよりもむしろ手間賃だろう。労働供給の場合は、留保賃金を下回る賃金では供給が生じないので、市場で流通しないが、そういう場合には流通しないのが効率的な資源配分なので、敢えて気にするまでもない。



1 Comments:
言わんとすることは分かります。
ただ、この記事で言う「市場」の意味が良く分かりませんでした。
経済学で言う、概念的な「市場」とか限定的な「市場」?それとも一般的に商取引が行われてる現実の「市場」?
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