Google
人気ブログランキングへ

5/11/2008

高速バスの予約と発券

高速バスは安くて手軽なのが魅力だが、予約を要する場合には、いささか面倒である。その原因は、バス会社はバスターミナル以外に発券できる場所を持っていないことである。飛行機なら空港にチェックインカウンターがあるし、鉄道なら無人駅から乗る場合を除いて駅で発券すればよい。ホテルなら、チェックイン時にレセプションで予約記録と照合すればよい。

鉄道なら、駅の窓口か券売機で買えばよい。飛行機だったらインターネットで予約しクレジットカードで決済して、空港でチェックインするときに支払いに用いたクレジットカードを本人確認の手段として提示すればよい。あるいは、JALと ANAなら、ICチップ入りのマイレージカードをセキュリティチェックと搭乗ゲートにかざすだけでよい。ホテルなら、単に予約だけして、確認のメールに記載された予約番号をチェックイン時に伝えればよい。いずれにせよ手軽である。これがバスだとこうは行かない。本来最も手軽であるべきバスで予約・発券が煩雑なのは残念である。

高速バスの予約・発券の一つの選択肢はインターネット上で予約してクレジットカードで決済し、乗車票をプリントアウトし、乗車時に乗車票を見せて乗るやり方である。これは便利だが、プリントアウトできる環境がないと利用できないという欠点がある。自宅や会社ならまだしも、旅先だとつらい。携帯電話で予約し、予約確認のメールを携帯電話に表示する方式なら乗車票を印刷する必要がないので便利だし、手元に携帯電話さえあれば、いつでもどこでも予約・決済できる。しかし、既存のインターネット予約システムでは、JTBの高速バス予約システムを除き、事前に会員登録する必要がある。身元を確認する意味があるのだろうが、会員登録をしていない状態で、思い立ったときに気軽に予約できないのは実に不便である。飛行機の予約なら、どのみち予約時に個人情報を入力するので、会員登録は不要だし、会員登録は、都度個人情報を入力する手間を省くための手段である。バスでも予約の都度個人情報を入力すれば会員登録が不要になるかもしれないが、そもそもたかがバスごときのために個人情報を入力する気にはなれない。もちろん、頻繁に利用するなら、個人情報を入力することによって手軽に予約できるという利点があるが、そうでなければ、あまり積極的に会員登録する気になれない。もし会員登録するとしたら、地方在住で、都会に出るための最も便利な交通手段が高速バスである場合だろう。

もう一つの選択肢はコンビニ発券である。これは、コンビニで端末を操作して新規に予約するのと、バス会社の予約センターに電話して予約し、コンビニの端末で発券するのと二通りある。ローソンとファミリーマートで、JTBのサービスを利用する。これは、従来の旅行代理店での発券機能をコンビニ端末で実現したものである。店頭で現金で払うことも可能だが、端末上でクレジットカードで払うことも可能である。予約に必要な情報は氏名と電話番号だけであり、発券に必要な情報は、予約時に伝えられた予約番号と、予約時に伝えた電話番号だけである。バスの予約なら、これくらい手軽であってほしい。電話で予約して発券する際、収納代行扱いで代金を払うという選択肢もあるが、この場合にはクレジットカードを利用できないので、敢えて収納代行扱いにする理由がない。どうせコンビニの端末で予約もできるのなら、思い立ったときにコンビニに行って予約と発券の両方を済ませるのが簡単だが、思い立ったときにすぐに電話で予約できるのは手軽だし、キャンセルの可能性を考慮して予約してから発券するまで間を置きたいときには先に電話で予約する方が便利である。ただし、電話予約は、予約センターの受付時間内でしかできないので、それ以外の時間帯ならコンビニ端末で予約せざるを得ない。コンビニの端末では、予約だけして発券しないことはできない。また、JTB扱いで発券すると、バス会社でもコンビニでも変更や払い戻しができない。「JTBHTA販売センター」という所に問い合わせる必要がある。

一昔前だと、旅行代理店で発券するしか選択肢がなかった。しかし旅行代理店の店舗数はさほど多くないし、営業時間も限られている。特に週末に営業している店が少ない。しかも、最近はインターネット上の予約・決済にシフトしているので店舗数も減少傾向にある。そこでJTBはコンビニ発券に活路を見出した次第である。これなら店舗数が多いし営業時間も長いし、簡単な操作で発券できるし、しかもクレジットカードで決済できるので、利用者にとっては便利である。JTB にとっては、旅行代理店による発券業務を独占できるという大きなメリットがある。

現状では、電話で予約して、コンビニでJTB扱いで発券するのが一番手軽だろう。しかし、本当にそれでよいのだろうか。もっと便利にできないものだろうか。そもそも、バスに乗るときに車内で発券できるのがファーストベストだろう。飛行機の本人確認では決済に使用したクレジットカードを用いるのだから、バスにクレジットカードの読み取り機と通信機能を塔載すれば同じことができるはずである。それに、予約無しで乗る場合でも、その場でクレジットカードで支払うことができる。高速バスといっても、予約の必要な路線では運賃が数千円するので、クレジットカード決済が中心であってよいはずである。通信回線は携帯電話のものでよいだろうし、あとは端末を小型化できればよいのではないか。携帯電話では信頼性が足りないということなら、高速道路や主要国道に通信回線を敷設してバス停付近にPHSの基地局を設置するというのはどうだろうか。至近距離で通信するなら電波強度が弱くてもノイズが少ないし、したがってロジックも比較的シンプルでよい。高速道路のバスストップにも、クレジットカード決済専用の券売機があってよい。PHSの基地局も兼ねて、バスの車載器と通信できるようにすればよい。携帯電話に乗車票を表示するというのも、実は携帯電話端末を券売機として用いるものだが、唯一の弱点は、画面表示が確かなものであるというお墨つきを与えるために、個人情報を多く入力する必要があるということである。最初からバス会社の端末を用いれば、本人確認の手間が大幅に省ける。

現に、JRでは大都市近郊の無人駅に簡易Suica端末が設置されている。これを高速バスにも応用すればよい。予約が必要な場合には、JALやANAのように、予約情報をICカードと対応づけて、ICカードをかざすことで本人確認と運賃の引き落としが行われるようにすればよいだろう。Suicaのシステムを応用するなら、まずはJRバスから導入してはどうだろうか。Suicaと個人との対応づけはSuicaポイントシステムのものを応用し、ICカードをかざすことで改札を行うシステムはJAL とANAのものを応用し、簡易端末はJRのものを応用すればよいので、既存の技術の組み合わせだけで実現できる。

唯一気がかりなのは、バスは参入退出が容易なので、路線や停留所が廃止されると、端末も撤去しなければならないことである。しかし、これも小型化してバス停の標識の中に収まる程度にすれば、バス停を撤去するのと同じくらいの手間で済む。そして、機器を汎用化標準化して再利用しやすいようにすればよい。そういう点でも、既存の技術を使い回すことが望ましい。

5/05/2008

成田バンコク線がA330-300に

2008年5月のタイムテーブルを見ていたら、2008年6月から成田バンコク線の機材がA330-200からA330-300になるようです。成田発着の他の路線のA330-300を転用しているのでもなさそうですし、ビーチマーケット路線のA330-300の機材が夏だけ大型化されているのでもなさそうですので、A330-200の重整備の都合でそうなったのでしょうか。機材の変更が一時的なのか恒久的なものなのかはわかりませんが、折しも夏の観光シーズンですので、機材の大型化は旅行者には朗報です。ただし、タイムテーブルでは火曜水曜運休とあるのが謎です。

成田のチェックインカウンターがリニューアル

2008年4月22日から、成田のチェックインカウンターがリニューアルオープンしました。今回の目玉は48台のセルフサービスチェックイン機が導入されたことです。AゾーンからCゾーンまでがノースウェストのチェックインカウンターですが、このうちBゾーンはセルフサービスチェックイン機のみが設置されています。また、AゾーンとCゾーンには、インターネットチェックインをした乗客専用の手荷物預かりカウンターが設置されました。

今回は残念ながらインラインスクリーニング対応ではないようですので、もうしばらく我慢する必要がありますが(2008年夏にインラインスクリーニング導入予定)、その代わり、手荷物を預ける必要のない乗客向けのセルフサービスチェックイン機も5台設置されています。

成田台北線復活

2008年5月1日のプレスリリースによると、久しく途絶えていた成田台北線が、 2008年8月31日から今度は757-200で復活するとのことです。西海岸から成田への路線との接続が便利になるようです。今まではデトロイトから関空経由のルートしかなくて、中国系住民の多い西海岸から台北へのルートがありませんでした。今回の増便はそれを補完するものでしょう。

757-200をどこから持ってくるのかわかりませんが、名古屋や大阪からグアムやサイパンへの路線を減便して持ってくるのでしょうか。それとも、アジア路線用の757をもう1機増やすのでしょうか。

5/03/2008

iPod Shuffle購入

3年以上使ってきたiPod miniのバッテリーの寿命が来たので後継機種を検討していたが、結局iPod Shuffleにしてしまった。もともと「曲をシャッフル」にして流しているだけという使い方をしていたし、母艦PCなしに出張や旅行に行くのはせいぜい1週間くらいであり、それ以上の期間にわたる場合には母艦PCを持参するだろうから、1週間に聴く分の音楽だけ入っていれば十分である。1週間で30時間くらい聴くとすると、1.8GBあれば十分なので、余裕を見積って2GBあれば事足りる。また、バッテリー容量も、毎晩寝ている間に充電するなら、1日に12時間も持てば十分である。折しも2008年2月にiPod Shuffleの2GBモデルが発売され、しかも値段も安いので、それならばということで購入した次第である。

実物が届いてみると、とても小さくて軽い。シンプルなので取り扱いも楽である。クリップで留めるだけでよいので、持ち歩いていることをあまり意識しなくてよいし、しまう場所を気にする必要もない。これで1週間分の音楽が入っているのだから、実に良い世の中になったものである。音質については、特別に良いというのではないのかもしれないが、決して悪くはない。そもそも外に持ち出すためのものなので、音質そのものよりも、周辺の雑音を遮断する方が効果が高い。また、外を歩いて周辺を散策するときに音楽が伴うことによって、音楽が風景の見え方に影響を及ぼしたり反対に風景が音楽の印象に影響を及ぼしたりすることに意義があるので、室内でじっとして音楽を聴くときと同じ尺度で判断しても意味がない。自分が楽しむためのものなのだから、全体としての印象の方が大切である。これはこれで独自の楽しみ方だと割り切れば、実に満足が行く。

母艦PCから音楽を吸い出す際には、iPod Shuffle用のプレイリストを作成し、そのプレイリストと同期させることによって、望み通りの音楽を吸い出すことができる。最初のPodcastを聴きたい場合には、曲をランダムに選択するようにして、その一番最初にPodcastを入れるようにすればよい。出掛けるたびに違う曲がランダムにかかるので、自分の音源を用いたラジオを聴いているような感じである。曲名が表示されないが、もともと自分がどのような曲を入れているのは把握しているので、聴けばどの曲だかわかるので、全く不自由しない。むしろ、画面の表示に頼らずにボタンやスイッチだけで操作できるので、取り扱いが楽である。

唯一不便に感じるのは、充電している最中には音楽プレイヤーとして使用することができないという点である。とはいえ、充電しているときというのは外出していないときでもあるので、そういうときには母艦PCを使えばよい。

iPod Shuffleは、初心者にはお勧めできないが、母艦PCがあってライブラリを能動的に使いこなせるということを前提にすれば、なかなか便利である。逆に、 iPod nanoやiPod classicをどのように使いこなせばよいか考えてみても、いまいちうまい使い方を思いつかない。iPod nanoの容量(4GBまたは8GB)は、音源をすべて持ち出すには足りないし、かといって外に持ち出すだけと割り切るには大きすぎる。全部持ち出すならiPod classicだろうが、母艦PCに長期間アクセスできずに音楽だけを持ち出すという状況でなければあまり意味がない。iPodをスピーカに接続してPC無しで音楽を聴くという使い方もあって、そういう商品が多数発売されているが、どのみちiPodはPCと連携を取るための製品であり、PC上の iTunesをそのまま外に持ち出すというのがコンセプトである。PCから孤立した環境で音楽プレイヤーとして使うというのは中途半端である。もちろん、いちいち PCを立ち上げる必要がないというのは、それはそれで便利だが、PCくらい常時立ち上げていても別に困ることはないし、そもそもPC上でなければPodcastやネットラジオを利用できないので、限定された使い方しかできない。初心者はいきなりiPod nanoを買ったりする前に、まずPC上の音楽ライブラリを使いこなせるようにした方がよいだろう。

さて、残ってしまったiPod miniだが、一応このままでも外付けのHDDとして使うことならできる。しかし今では8GBのUSBメモリも安価に入手できるので、大きくて重いiPod miniを単なる記憶媒体として使うのはあまりうまい使い方ではない。 iPod miniはバッテリーを換装してマイクロドライブ(直径1インチのHDD)をコンパクトフラッシュに換装すればまだ使える。当初はそれも考えたのだが、そうすると1万円以上かかるので、それならば新品のiPod Shuffleを購入した方が安いし、現状の使い方のもとではiPod Shuffleで十分だと判断したので、iPod Shuffleを購入した次第である。とはいえ、iPod classicよりも小さいiPod mini に32GBの容量と十分な連続再生時間さえあれば、まだまだ使えることも確かである。どのみちiPod classicとiPod Shuffleとでは用途が異なるので、2台あってもよい。また、外に持ち出さずに専用のスピーカに接続するだけの用途で使ってもよい。それについては、今後必要に応じて検討するつもりである。

1/05/2008

CDのオンライン通販と音楽のダウンロード販売

iTunes Music Storeのおかげで最近ではすっかり音楽のダウンロード販売が普及しているが、それでも非圧縮音源のCDが欲しいとか、カバーが欲しいといったようなニーズも依然としてある。しかし、ダウンロード販売に慣れてしまうと、即日発送翌日配達でなければ気が済まず、取り寄せで1週間くらい待たされるとストレスを感じる。数日待つだけなら店頭まで買いに行くのと大差ないが、1週間を越えると、途中で1回は週末を挟むことになり、通販の優位性が損われる。

せっかくオンライン通販なのだから、CDを購入した顧客に対して圧縮音源をダウンロードできるようにしてもよいのではないだろうか。どのみち、正当な対価を払った上で圧縮音源にして携帯音楽プレイヤーに転送するのだから、即座に入手できる圧縮音源だけを先に提供してくれれば、CDが届くのが遅くなってもあまり気にならないので、物流コストを圧縮することができる。普通の店なら、客を待たせるときにお茶くらい出すものだが、お茶だけで顧客を繋ぎ止めることができるなら安いものである。しかもダウンロード販売も行っているなら、圧縮音源を提供することに一切の費用がかからない。自動化してしまえば人件費すらかからないので、お茶よりも安い。

CDの店舗販売でも、無圧縮音源をその場でCDに焼いてくれれば、所有する音源をすべてその場で販売することができるので、狭い店舗であっても世界中のありとあらゆるCDを販売することができる。強いていえば、CDに焼くたびにライセンス料を支払うための仕組を構築するのに手間がかかりそうだが、iTunes Music Storeなどと同様の原理でできるはずである。店舗でCDに焼くよりも、工場で加工したものを店舗に配送する方が物流コストが低いのかもしれないが、それはあくまでも大量生産が利く商品に限ってのことであり、マイナーなCDならデータだけ転送してその場でCDに焼いた方が安いだろう。顧客の求めるものは、CDというプラスチックの円盤ではなく、音楽である。それを安価に貯蔵して、任意の圧縮方式に変換できるようにするための手段としてCDを求めているに過ぎない。

だったらCDの販売などやめて、ダウンロード販売だけにすれば良さそうで、現に Appleはそうしている。現状ではネットワーク回線の太さやiPodでの利用を考慮してAACの128kbpsで販売しているが、回線がもっと太くなれば、無圧縮音源で販売することも技術的には可能である。バックアップメディアが欲しい人だけ、自分でCDに焼けばよい。さらに回線が太くなれば、わざわざダウンロード販売するまでもなく、聴きたいときに聴きたい曲をストリーミング配信することだってできるようになるかもしれない。ただし現状ではネットワークよりも記憶媒体の方が安価で大容量なのであまり現実的ではないし、好きな音楽は何度でも聴きたいものだから、一旦ダウンロードしたものを貯蔵する方が効率的かもしれない。

しかし例えば、iPod Shuffleが、PC上の音源のみから曲をコピーするのではなく、好みのジャンルの曲をサーバから自動的にダウンロードしてくるなんてことができたら面白いだろう。iPod Shuffleの容量は1GBと限られているので、何か新しい音源をダウンロードするには、他の音源を消去しなければならない。消したくない音源や、もっと高音質で聴きたい音源があれば、別途購入してPCに貯蔵すればよい。iPod Shuffleを音楽試聴マシンとして活用するのである。販促アイテムとして、圧縮率の高い音源(例えばAAC 128kbps)を無料または格安でダウンロードできるようにすればよい。PCからiPodにコピーすることできても、iPodからPC にコピーするのは困難だという性質を活用すると、そんなこともできる。試聴した音源のうち実際に購入したもののデータを蓄積することによって、より顧客の好みに近い音源を試聴できるようにすることもできる。

購入しなければ消えてしまうというのはインターネットラジオでも同様で、現に Live365では、プレイリストを表示して、気に入った曲があれば購入ボタンを押して購入できるようになっている。ただしLive365では一定量の音源を繰り返し配信しているだけなので、本当の意味で消えてしまうわけではない。そういう意味では、元の音源の量が多ければ多いほど有利なので、Live365のラジオ局程度の規模ではなく、それこそiTunes Music Storeくらいの規模のサイトで実施する方がうまく行くだろう。また、インターネットラジオは、曲単位で録音して持ち出すのは容易でないので、携帯音楽プレイヤーに入れるなら、インターネットラジオよりもサーバからランダムにダウンロードする方式の方が扱いやすい。自宅でインターネットラジオを垂れ流しにできるなら、敢えて音源を購入しようという気があまり起きないが、iPod Shuffleという限られた機器の中では、試聴のチャンスが乏しいので、音源を確保したいという誘因が強い。

1/04/2008

本当に素晴しいものは市場に流通しない

日頃市場経済を擁護しておきながらこんなことを言うと身も蓋もないのだが、本当に素晴しいものは市場に流通しないものである。広告を頼りに不動産を探しても、ろくな物件が見付からないが、知人の住まいを訪ねると、広告に出ていたどの物件よりもすばらしかったりする。そのような物件は、広告を出すまでもなく、次の借り手なり買い手が見付かっているからである。本当にもてる人は合コンになど行かない。すぐに売り切れるため、合コンになど行く必要がないからである。一流の料理店は、市場で仕入れるのではなく、知り合いの漁師や農家から最高の食材を直接仕入れる。本当に仕事のできる人は、エージェントに頼らずに、知人からの紹介によって、自分で転職先を見付けてしまう。求人情報誌を参照することなどない。極論すれば、公になっているものなど、所詮その前に買い手のつかなかったものか、あるいは大量生産品であるが故に多くの人に知れ渡っているだけに過ぎない。世の中には大量生産品ですぐれたものはあまたあるが、資源に制約がある以上、本当に素晴しいものを大量生産することは難しい。

素朴に考えると、これらは皆勿体ないことをしているように見える。プロスポーツ選手のようにフリーエージェントの権利を行使して自分の価値を計る方が、より良い条件で取り引きできるはずなのに、敢えてそうせずに狭い範囲での取引に終始している。何かうまい説明のしかたはないだろうか。

まず思いつくのは、上物は数が少ないということである。多数の売り手と多数の買い手との間のせめぎ合いによって価格が形成されるというわけではない。しかしそれでも、eBayとかYahooオークションみたいな、誰もが広く利用できるようなオークションを利用すれば、最も高い値段をつけた人が落札できるはずである。だから、売りに出すときに広告を出すとか、オークションに出品するくらいのことはしても良さそうである。にも関わらず、そのような形で公になることはない。

上物は数が少ないからサンプルサイズが乏しいせいで価値がわかりにくいのだ、非対称情報のせいで市場が成立しないのだという考えにしても、だからこそオークションで競りにかけることに意味があるわけだし、特に共有価値オークションなら、最も過大評価した人が落札する仕組だから、売り手にとっては都合が良いはずである。転職市場のように、売れた後で長い付き合いをする場合には、過大評価されるのも考えものだが、少なくとも競りにかけることによって平均値を知ることならできるはずである。

では、市場参加者のすべてが同じように情報を持っているわけではないとするとどうだろうか。本当に価値のわかる人が自分の周辺にしかおらず、市場に出してもまともな値段がつかないなら、わざわざ市場に出すまでもない。やっても無駄なことなら最初からやらないのが合理的である。おそらく、普段からその人なり、その人の持つ物なりに接していて初めて本当の価値がわかる場合には、そうなるだろう。普段から接している人は十分な情報を持っている反面、そうでない人は情報を持っていないので、期待値でしか評価できず、レモンの市場と同様の論法によって、期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。それを所与とすると、市場に流通するものの期待値が下がるので、同様に期待値以上の価値のものは市場に流通しなくなる。この論法を繰り返すことによって、「普段から接していないと価値がわからないもの」が市場から消えてしまう。

振り返ってみると、本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接している人でないとわからない。だからこそ転職の際には上司の推薦状を3 通求められるわけだが、推薦状に書かれた内容を信用するためには、推薦状を書く人のことをよく知っている必要があるため、狭い範囲でしか流通しない。人柄の良さにしても同様である。不動産の価値にしても、投資目的なら相場を読めるが、消費目的なら、本当の価値は住んでみないとわからない。

しかし、その論法を用いると、「普段から接していないと本当の価値のわからないもの」とそうでないものの境界はどうなっているのかという問題が生じる。本当に仕事のできる人がどの程度仕事ができるかは、日頃から接していないとわからないだろう。しかしさほど仕事のできない人であっても同様の理屈が成り立つはずである。一体どこに違いがあるのだろうか。上記のストーリーだと「身の周りで買い手の見付からなかったものが市場に放出される」ということになるが、なぜ上物には買い手が見付かり、そうでないものは買い手が見付からないのだろうか。別の言い方をすると、なぜ平均的なレベルのものに対しては市場が存在するのだろうか。

おそらく、平均的なものはサンプル数が多いために既に評価が確立しているのだろう。「その他大勢」の一人なら、「その他大勢」というモノサシを適用すればよいので評価するのは簡単である。では「その他大勢」の市場がなぜ存在するかといえば、たまたま市場があるが故に市場に流通させることができるということなのだろう。鶏が先か卵が先かみたいな話だが、そもそも市場経済の成立というのは歴史的なものであり、なぜ市場が存在するのかという問いに対しては、たまたま存在するとしか答えようがない。

サンプルサイズが決め手ということなら、「本当に素晴しいものは市場に流通しない」のと同時に、分布のもう一方の端である「全くろくでもないものも市場に流通しない」と言えそうな感じがするがどうだろうか。たしかに「どの程度ろくでもないのか」についての情報が非対称だが、しかしこの場合には、真の価値が買い手の期待値を上回るものは市場に流通せず、そうでないものが市場に流通するということになってしまうので斉合的ではない。品質が低い場合であっても、売り手が情報を持っており買い手が情報を持っていないという状況は同じだから、きれいに反転させることができず、したがって同じストーリーでは説明できない。実際には、価格がつかないくらい価値が低いものは、タダで引き取ることができるから、物理的には流通しうる。段ボールや空き缶も単独ではゴミだが、大量に集めると使い道が生じるので、お金を出して引き取る会社が出てくるが、材料費というよりもむしろ手間賃だろう。労働供給の場合は、留保賃金を下回る賃金では供給が生じないので、市場で流通しないが、そういう場合には流通しないのが効率的な資源配分なので、敢えて気にするまでもない。

1/03/2008

iPod用のアクティブヘッドホンがほしい

携帯音楽プレイヤーが普及するにつれ、高級ヘッドホンに対する需要が増えているようである。しかし、どんなにヘッドホンの性能が良くても、所詮デコーダやアンプが安物では大した音は出ない。できれば、iPod用のアクティブスピーカをそのままヘッドホンにしたような製品がほしい。iPod本体内蔵のチップで音を鳴らすのではなく、ドック端子からデータを吸い出して、それをヘッドホン内蔵のチップで音声にして、ヘッドホン内蔵のアンプで増幅するようなものである。いわば、iPodをハードディスクとOSとしてのみ使い、オーディオプレイヤーの部分をヘッドホンに委ねるようなものである。iPodを携帯音楽プレイヤーとして使うのではなく、iTunes専用PCとして使うという考え方である。

アクティブヘッドホンならノイズキャンセリング機能をつけるのも容易で、巷に出回るアクティブノイズキャンセリングヘッドホンはそれに近いが、どういうわけか、ヘッドホン端子から音声出力を得ているものばかりである。せっかく独自の電源を持つアクティブヘッドホンなのだから、iPodのアンプなんて通さずに、自前で音声を出力すればよいと思うのだが、今のところそういう製品は出ていない。

あと、欲を言うなら、iPod本体から電源を得られるようにすると、電池交換や充電の手間が省ける。ソニーのノイズキャンセリングウォークマンだって、ノイズキャンセリング機構の電源は本体から得ているのだから、iPod用に最適化されたノイズキャンセリングヘッドホンなら、電源はiPod本体から得るようにしてほしい。ただし、ドックの回路は、本体が外部電源を得るようにはできているが、外部の機器が本体から電源を得られるようにできているかどうかは知らない。

ノイズキャンセリング機構や外部のデコーダやアンプを動かすとなると、iPod本体にそれなりのバッテリ容量が必要だろう。PCみたいに予備のバッテリと交換できたり、様々な容量のバッテリパックを選べればよいのだが、残念ながらiPodでは利便性重視で、本体内蔵のバッテリしか使えず、バッテリ交換は容易ではない。世界中で普及している携帯電話用のバッテリパックを使用し、携帯電話と同様に簡単にバッテリを交換できれば、携帯電話とiPodとでバッテリパックを共用できて便利なのだが、iPodの設計思想はそのようにはなっていない。外付けバッテリは様々なものが市販されているので、むしろそういうものをメインに使う方が筋が良いかもしれない。

そのようにして携帯音楽プレイヤーの機能や電源を外部に求めると、iPodの存在意義が薄れるが、iPodの存在意義はiTunesを持ち出すことにある。しかしそれならiPodというハードウェアにこだわる必要はなく、日本の携帯電話にiTunesを塔載してくれればそれで事足りるような気がする。WindowsやLinuxをOSとして用いる携帯電話なら、iTunesを塔載するのも技術的には難しくないはずである。あとはAppleがその気になるかどうかの問題だが、Appleの本命がiPod TouchやiPhone である以上、日本の携帯電話との連携はあまり考えられていないような気がする。そもそも日本市場でしか売れない日本の携帯電話と、世界中で売るiPodとでは想定される市場が全然違う。

1/02/2008

鉄道旅行で大切なこと

最近は用もないのに鉄道に乗ること自体を目的とした旅行が普及しており、乗り鉄はいまや一般人の趣味である。若い頃に周遊券で鉄道旅行をした世代が年金生活をするようになって、夫婦で青春18きっぷを使って旅行しているのをよく見かける。最初のうちは、ただ乗るだけでも新鮮だが、ある程度経験を積むと、いろいろ考えるべきことが増えるし、乗り物での移動の不便さもよくわかるようになるので、むしろ悩みが増えて敷居が高くなる。

移動を目的としているなら、予算に応じてコストパフォーマンスの良いものを選べばよいし、そもそも貧乏旅行ならさほど選択肢がないので、計画を立てるのはさほど難しくない。難しいのは、そこそこお金があって、かつ用もないのに鉄道に乗ろうとするときである。乗り物で移動すれば時間とお金がかかるだけでなく、一日中乗り物の座席に坐っていれば、さすがに疲れる。また、景色が見えないのに乗り物に乗っていてもつまらないので、できれば日が暮れたら宿に泊まりたい。また、せっかく用もないのに乗り物に乗りに来ているのに、疲れてしまって車内で寝てしまっては勿体ない。となると、早朝に出発わけにもいかない。また、移動が目的ではなくて、鉄道に乗ること自体が目的なので、あまり駆け足で移動しても意味がなくて、少し乗っては泊まる方がよい。そのようなことを考慮しているうちに、まさに内田百間の阿房列車みたいなスケジュールになる。

すると、乗り物に乗っている時間よりも宿に泊まっている時間の方が長いので、あまり変な宿には泊まりたくない。とはいえ、宿代がかさむので、あまり高級な所にばかり泊まるのも勿体ないし、それに夕方にチェックインして朝になったらチェックアウトしてしまうのだから、あまり高い宿に泊まっても意味がない。できれば、そこそこのレベルでかつ安いという穴場があればよいのだが、まさに穴場なので、なかなか見付からない。東横インはたしかにいろいろ気が利いているので、1泊するのは良いが、東横インはどこでも同じなので、毎晩各地の東横インに泊まっていると、すぐに飽きてしまう。宿選びもなかなか難しい。

というわけで、計画するだけでも暇を潰せるし、計画しているだけなら、時間はともかくお金と体力は使わずに済む。一方、計画を実行するのは、時間とお金が必要だし、それに何よりも用も無いのに出かけるためには強い意志が必要である。鉄道旅行で一番難しいのは実はこれである。ある特定の日程でなければ実行できないような計画なら、かなり前から周到な計画を立てて、あとは当日に決行するだけだから、さほど難しくない。いつでも行けるような旅行は、まさに今日行かねばならないという必然性がないので、ずるずると延期されやすい。何となく忙しいからとか、何となく疲れ気味だとか、当日の朝に眠いといった理由で、なかなか実行されず、時間だけが過ぎていく。阿房列車でも、著者が夜型ということもあって、なかなか出発に踏み切れない。別に用はないので、行かなくても困ることは全くないし、義務として出掛けてもつまらないので、行きたくなければむしろ行かない方がよいのだが、行かないのなら計画を立てても意味がないのでつまらない。計画を立てているうちに、本当に出掛けたくなるのをじっと待つしかない。

ではどういうときに旅に出たくなるかというと、暇なときは意外と外出が億劫である。また、暇なときはあまりストレスがないので、どこかへ出掛けたいという気分にならない。むしろ、忙しいときや、仕事のことを考えない時間を確保したいときの方が、「とにかくどこかへ行きたい」という気持ちが強いため、さほど気の利いた計画でなくても出掛けやすい。鉄道旅行も料理と同様に、空腹が最高の調味料なのである。どこかへ出掛けたいという気持のないときに乗り物に乗っても、あまり楽しめないし、疲れるだけである。どこかへ出掛けたいという気持が強ければ、観光地に行かなくたって、高級な宿に泊まらなくたって、車窓の眺めが格別でなくても、息抜きさえできれば、そこそこ楽しめるものである。だから、用もないのに乗り物に乗るだけでも十分に楽しめるのである。

ただし、阿房列車でも書かれている通り、行きには用がなくても、帰りには帰るという用事がある。阿房列車では、帰りには帰るという用事があるから3等でも我慢できると書かれているが、通常は、翌日の仕事に差し障えては困るし、乗り物での移動が苦痛になるのでは、鉄道旅行の半分しか楽しめないので、行きは鈍行でもよいが、帰りには飛行機や新幹線や特急を奮発する方が楽だし、帰りの時間を短くする方が、その分行きの時間を長くすることができるので、用のない旅を楽しむことができる。素直の考えると、どんどん遠くへ向かって、帰りに一気に帰るだけになりそうだが、渦巻き状に周遊して、最後に一直線に戻るというやり方もある。また、行きにはあちこち寄り道して遠回りして、帰りには飛行機で一気に戻るというやり方もある。単純往復はあまり面白くないので、往路と復路とでルートを変えるのが基本だが、行きはのんびりと移動して、帰りは一気に戻るなら、ルートが同じでも、移動手段が違うので、異なる楽しみ方ができる。

12/22/2007

ホワイトカラーに残業代など不要

一時期ホワイトカラーエグゼンプションが導入されようとしたが、立ち消えになってしまった。「実質的な賃金切り下げだ」という主張が強かったのがその理由だが、おかしな点が二つある。一つは、いろいろな人が主張するような、「賃金を切り下げて国際競争力を身につけなければ、結局仕事自体が無くなってしまう」という、経済学の教科書的な考え方である。「賃金切り下げだ」という批判に対して「賃金切り下げで何が悪い」と開き直る考え方で、「賃金切り下げだ」という批判に対しては、これで十分である。

もう一つのおかしな点は、「そもそもホワイトカラーが残業代をもらっても意味がないのではないか」ということである。ホワイトカラーエグゼンプションの導入が検討された際には、年収800万円以上の所得を得ている労働者に対して、残業代の支払い義務の適用を除外するとしていた。普通の日本企業で、非管理職かつ年収800万円以上というのは、かなり特殊な職業だけであり、残業代がもらえなくなって困るような賃金スキームではない。

営業などフロントオフィス系のように、自分の働きが会社の稼ぎに直結するような職種では、ベースサラリーはさほど高くなくて、稼いだ実績に基くボーナスが主たる収入源である。別に残業代で稼いでいるわけではない。農業などの自営業の場合、規模は小さくてもれっきとした経営者なので、残業代をもらっているわけではない。長時間働いても、稼いだ分はすべて自分の利益として受け取っている。

管理職が残業代をもらえないことからもわかる通り、頭を使う仕事では残業代をもらっても実はあまり意味がない。なぜなら、頭を使う仕事では、1日24時間寝ている間も仕事のことを考えており、職場にいる時間を以て労働時間としても意味がないからである。なまじ「職場にいる時間には残業代を支給する。自宅作業には残業代を支給しない」という賃金スキームだと、平日の夜間に職場で仕事をせざるを得なくて、体が疲れて仕事をやりにくい。どうせ頭を使う仕事をするなら、人と会わない夜間や休日くらい自宅で作業したいものである。長時間労働を前提とした高い年俸をもらえるなら、時間給でなく固定給でもらう方が仕事をしやすいのである。だから研究者のような頭脳労働者や創造的な仕事に従事する人は裁量労働制で、残業代をもらえない。残業代をもらえないホワイトカラーというのは、ボーナスが高いかベースサラリーが高いかのどちらかであり、決して「残業代をもらえないという理由で給料が安い」ということはない。

そもそも、時間を切り売りするだけで年収800万円以上稼ぐのはかなりつらいのではないだろうか。時間を切り売りする仕事だとあまり大きなお金を動かせないから、業種にもよるが時給2500円くらいが限度だろう。年間3200時間働く必要があるが、これだと毎月300時間近く働かねばならず、36協定がどうこう以前にそもそも体が持たない。こんな仕事をするのはシステム開発をするSEくらいではないだろうか。どうせ800万円稼ぐなら、いつまでも時間を切り売りしたりせず、人的資本に投資してストックビジネスをする方がはるかに効率的である。

さらに、純粋に仕事の成果が労働時間に比例するなら、最初から時給いくらという労働契約を結べば済むことであり、月給やボーナルを伴うような労働契約と違って、そもそも残業代という概念が存在しない。俗に言う「正規雇用」の方がむしろ特殊なくらいである。成果物が明確なら、成果物ベースで請負契約を結べばよい。

「残業代カット法案だ」と批判する人は、残業代をもらうような立場にいるということだから、管理職でもなければボーナスで稼ぐ人でもなく、頭脳労働者でなければ派遣労働者でもなく、成果物が不明確であり、かつ年収800万円を越えている人ということになる。一体どういう仕事をするとそういう身分になれるのか不思議である。

誤解を避けるための補足しておくと、残業代は労働のインセンティブと所得の両方に影響するが、所得水準は労働市場での均衡で決まるものであり、残業代無しの労働契約なら、当然、残業代抜きでもそれなりの給与になって然るべきである。それを前提に、仕事のあり方に即したインセンティブスキームは何かというのが、ここで論じている内容である。

12/02/2007

学歴は生産性にどのように貢献するのか

一般に、学力がそのまま専門的な技能に直結する研究職や専門職を除いて、実社会での仕事では学歴はあまり役に立たないと言われている。しかるに、大企業の経営者とか中央官僚というのは比較的高学歴だし、所得も高い。これは学歴差別ないし学閥によって、不当に利益を得ているということなのだろうか。

これを説明するための仮説は、以下のストーリーから成る。

1. 一般に所得は、仕事で動かしているお金の大きさと相関する。
2. 人間が一人だけで行う仕事では、動かすお金の量が、個人の生産性によって 制約される。
3. 高い所得を得るためには、大勢の人を巻き込む仕事で影響力を発揮する必要 がある。
4. それは、生産性の高い組織で、人の上に立つ仕事である。
5. 人の上に立つためには、自己および他者を客観視し、それぞれの立場を考慮 しながら、最善策を見付ける能力が不可欠である。
6. 自らを絶えず向上するためには、自分の欠点を客観的に見つめ、至らない点 を認めた上で直す必要がある。
7. 大勢の人を巻き込む仕事をする際には、コミュニケーション能力が重要だが、 自分の考えを伝えるにせよ、相手の考えを理解するにせよ、客観的かつ論 理的な思考が不可欠である。
8. 物事を客観的に見る能力も論理的に思考する能力も、学歴と相関する。
9. よって、学歴と社会的地位とは相関し、社会的地位と所得とは相関するので、 学歴と所得とは相関する。

上記のうち「コミュニケーション能力の乏しい人は、他人を巻き込む仕事をできないし、戦略性の乏しい人は大きな仕事をできないから、大きなお金を動かせず、よって所得も地位も低い」というのはわかりやすいだろう。一方わかりにくいのは、「物事を客観的に見る能力は、学歴と相関する。」という部分ではないだろうか。おそらく、論理的思考能力はともかく、客観性については、あまり実感が沸かないかもしれない。たしかに、知識を丸暗記するというのは、あまり利口そうな感じがしない。しかし、学校の勉強というのはそれだけではない。最も大切なのは、論理的な文章の読み書きをはじめとする、論理的な思考の訓練である。論理とは、平たくいえば、一定の約束事に基いて言葉を操ることである。言葉というのは、我々が普段話しているような言葉だけでなく、数学や、概念や、その他学問的知識も含む。学校の勉強では、読み書きにせよ計算にせよ、より高度な数学にせよ、科学にせよ、論理的な体系をわかりやすく落とし込んだものであり、それを習熟度に応じて、手を動かして練習する。もちろん、小学校、中学校、高校、大学、大学院と上がるにつれて、内容がより高度になっていく。学校の良いところは、宿題や試験で採点されて、自分の解答の正しい部分と間違った部分とが明らかになることや、問題には常に正解があるので、複雑で答えのない現実社会と違って、正しいか間違っているかを比較的把握しやすいことである。

そのようにして、記号論理の操作をできる範囲を広げていくことによって、様々な事を客観的に捉えることができるようになる。記号論理の操作をできる範囲を広げていくことがなぜ大切かといえば、一見対立するかのような考え方が、より高次の考え方によって説明されうるからである。例えば、見解が一致しないのは前提条件が違うからであり、何を前提にするとそうなるのかを考えることによって、物事の解決策が見えてくるだけでなく、異なる立場に対して配慮できることができるようになる。言うならば、学歴というのは、自己や他者を測るためのモノサシであり、そのモノサシが長ければ長いほど、より多くの人を巻き込む仕事や、より戦略的な仕事が可能になるのである。例えば、何か良くないことが起きたときに、単に「それはけしからん」と怒るだけの人と、「なぜそのようなことが起きたのか、そのようなことが起きないようにするにはどうしたらよいか、差し当たり、当座の解決策はないか」と、根本原因の追究と問題解決を考える人とでは、仕事の幅も質も全然違う。それで両者の所得が同じである方がおかしい。

もちろん、上記のストーリーが成り立つのは、学校で自分の頭を使って真面目に勉強した場合であり、ただ漫然と学校に通って、わけもわからずに卒業しても、論理的な思考力や、客観性や、コミュニケーション能力や、問題解決能力は身につかない。たまにいる「高学歴の馬鹿」というのはこのタイプである。丸暗記ばかりで頭を鍛えず、しかも中途半端に知識があるものだから自信過剰で、自己の軌道修正を怠り、他者の主張を理解しようと努めずに、自分勝手に言いたいことを言いっぱなしなので、コミュニケーションが成立しないし、問題解決に貢献できないので、使いものにならない。

世の中には低学歴ながら頭の良い人があまたいるので、学歴になどこだわることはないのではと思いたくなるのだが、個別的には高い能力を持っていても、「人の話を聞けない」「人の言っていることを理解できない」「物事を客観視できない」「異なる立場の人を思いやることができない」「問題解決を志向しない」といった問題点があるせいで、一定以上のレベルに上がれない人達を多く見てきたので、やはり低学歴なのがネックなのだろうかと思えてくる。上記のものだけを列挙してみると、単に性格が悪いだけに見えるが、少し掘り下げてみると、「一見頭が良さそうに見えて、実はやはり、あまり頭が良くないのではないか」と思い当たる節がある。よく話を聞いてみると、単に自分の経験を過度に一般化しているだけだったり、勝手な思い込みで間違ったことを言っているだけだったり、コミュニケーションが成立しないので使いものにならなかったりする。

個人プレイなら各人の持っている能力の範囲で仕事をすればよいので、それで十分に稼げるのだったらたしかに学歴は必要ないだろう。階層的請負構造の末端に位置するクリエイターとかなら、一人でも仕事をできるから、特に学歴は要らないと思う(たぶんそれだと所得が低いだろうが)。しかし、組織で仕事をし、その組織が大きく複雑である場合には、自分の力だけでは仕事をできない。儲かる仕事というのは、大抵そういう場所にある。

私は、学歴は以下のものと相関があるように感じている。いくつか挙げているが、互いに重なっている部分も多く、本質的には「広い意味での頭の良さ」という共通項でくくることができるのではないだろうか。

1. 論理的思考力
2. 読解力
3. 論理的表現力
4. 客観性
5. コミュニケーション能力
6. 他者への思いやりと寛容さ
7. 問題解決能力
8. 構想力
9. 戦略性
10. 物事の本質を見抜く能力
11. 対人スキル
12. 人間力

学歴は原因なのか結果なのかというのは厳密にはオープンクエスチョンだが、たしかに「素質」に関しては先天的なものであり、多分にシグナリング的な要素もあるものの、「素質を引き出す」という部分は後天的なので、これは学歴によって培われると考えてもよいのではないだろうか。素質だけでは生産性に貢献せず、本来持っている潜在能力が引き出されて初めて役に立つのだから、「学歴が生産性を高める」と言ってよいと思う。

となると、知識そのものというよりも、物を考える力や対人スキルの問題であり、大人になってから、表面的な知識で職業訓練を受けてもあまり役に立たないことになる。少なくとも、所得にはさほど貢献しないことが実証分析で明らかになっている。所得への影響が実証されているのはむしろ初等教育だが、初等教育で得るものは、知識というよりもむしろ物を考えたり人と接したりする能力なので、上記の仮説と斉合的である。もちろん、大人になってから頭を鍛えることができれば問題ないのだが、脳には訓練に適した年齢があるので、それぞれの年齢にふさわしい訓練を受けてこないと、必要な能力が身につかない仕組になっている。漢字書き取りとか計算ドリルを大人になってからやれば、頭の体操にはなるものの、実社会で使える頭になるまでには程遠い。親が口うるさく「学校の勉強をちゃんとやれ」と言うのは、後でやろうとしても手遅れであることを経験によって学んでいるからである。

念のため補足すると、上記のような能力は頭脳労働の生産性を高めるのに貢献するが、高い所得を得るためには、大きなお金を動かすことさえできればよいので、必要条件ではない。金融業のようにもともと少数で大金を動かす商売とか、プロスポーツ選手や芸能人のようにマスメディアを通じて多くの人に影響を及ぼす商売であってもよい。一般人がセレブに憧れるのは、真面目に人的資本投資をしなくても、マスメディアの恩恵を受けるだけで、楽をして大金を稼げるように見えるからだろう。もちろん実際には、金融業にせよプロスポーツ選手にせよ、芸能人にせよ、馬鹿には勤まらない商売だし、しかも厳しい商売なのだが。

このままだと低学歴の人が浮かばれないので、さらに補足すると、低学歴だからといって絶望する必要はない。世の中、低学歴でもちゃんと生きている人達は大勢いる。ただ、持っているスキルセットによって、仕事の向き不向きがあることは如何ともし難くて、だからこそ比較優位に基く棲み分けが実現している。高学歴者が低学歴者向けの仕事をしてもあまりうまく行かないのだから、お互い様である。低学歴の人が高学歴者向けの仕事に挑戦する場合には、不利な部分を自覚して、それを補うために、人一倍努力をすればよい。

不利な部分を補うために最も適しているのは、性格が良いことである。いきなり説教じみていて恐縮だが、本当にそうなのだから仕方ない。人の話を聞いて、人の言うことを素直に聞き入れ、わからないことがあったら質問なり相談なりすれば、スペック相応の評価はしてもらえるし、技能を吸収できれば、その分評価が上がる。周りの人も、育てがいのある人に対しては親切に教えようという気になるので、周りからかわいがられる人間になる方が絶対に得である。しかし、そのようなタイプの人は、家庭の経済事情にもよるが、そもそも社会に出る前に高い学歴を獲得しやすいタイプでもあり、低学歴者の中からはなかなか掘り出しものに巡り逢えない。筋が良いのは、一流のスポーツ選手や一流の料理人など、一つのことをきちんとやってきた人達である。このような人達は高学歴者とは別の方法で鍛練してきた人達であり、別の分野に移っても、それなりに適応できる。というか、下手な高学歴者よりもよほど良い仕事をする。どんな世界でも、馬鹿では大成できないのである。逆に言えば、その人の持つ頭脳や性格の良さを見ることによって、前職でどの程度の人だったのか予想がつく。

では、性格が悪いとどうなるだろうか。まず、低学歴でありながら高学歴者向けの仕事に挑戦する人というのは、経験に根差した技能がそれなりにあり、それが変なプライドにつながっているものである。かといって、素人が少し噛った程度では、専門職と互格にやり合える程の力量があるわけでもないので、本来ならば、周りの人達の声に耳を傾けて、さらなる向上を目指さなければならない。そういう状況で人の話を聞けずに勝手なことばかり言い、議論を収束させるべきときに、逆に議論を発散させるようなことばかり言っていると、まともなコミュニケーションが成立しない人と認定され、放置されるかクビになる。コミュニケーションの成立しない人は、対話の目的や方向性や着地点が見えていないので、そういう意味では、頭が悪い。この手の人達は、自分のどこに問題があるのかわかっていないので、トラブルを起こすと人を逆恨みしたり、人の悪口ばかり言う。そういう人が次の仕事を見付けても、また同じトラブルを起こすことになり、良い仕事から徐々に締め出され、人生に袋小路に入っていく。たしかに気の毒ではあるものの、これはただひたすら本人の気づきの問題であり、他人が救いの手を差し伸べても、その手を振り払われるだけなので、ひとまず消えてもらって、本人が悔い改めるまで辛抱強く待つより他にない。

12/01/2007

宝くじと所得格差

貧乏な人は、ほんの一握りの金持ちが富を独り占めすることを嫌う。そして、金持ちから貧乏人への所得の再分配を求める。自分が得る僅かな金のために金持ちを貧乏にしようとするのである(実際には、金持ちをいじめると金持ちに逃げられて、貧乏人はより一層貧乏になるのだが)。ただし、その是非はともかくとして、心情的には理解できなくもない。

理解に苦しむのは、上記のようなことをしておきながら、同時に宝くじを買うことである。宝くじというのは、貧乏人がお金を出して、ほんの一握りの金持ちを作り出すシステムである。しかも、胴元に掛け金の半分くらいを持って行かれるので、出資者の総余剰が著しく減少する。自分が望んでいることと正反対のことをしているのである。賭博は愚か者への課税であると言われる所以である。宝くじの当選者は不当に利益を得た金持ちであり、当たらなかった人は貧乏人なのだから、「金持ちから貧乏人に所得を再分配せよ」と主張するなら、「宝くじを違法化せよ」と主張するのが筋だし、せめて自分では宝くじを買わないのが筋だろう。それだけでなく、宝くじで最も儲けているのは胴元であり、胴元の儲けは3 億円といったのとは比較にならない金額である。なぜ、貧乏な人達が、みすみす金持ちをさらに儲けさせるようなことに加担しているのだろうか。

「リスクを増す宝くじとリスクをプールする保険との両方を買う」というのは古くから知られたパラドックスだが(どちらも冷静に計算すると期待値の面で割に合わないという点でも興味深い)、所得格差を糾弾しつつ宝くじを買うというのもパラドックスである。このパラドックスを解決するような理屈はないだろうか。「宝くじを買うような非合理的な人の言動が一貫しているわけがないのだから彼等の言うことを真面目に聞き入れる必要はない」というしごく真っ当な指摘はあまりにもプリミティブであり経済学の土俵に乗らないので、それ以外のものを考えてみたい。

すぐに思いつくのは、金持ちを妬む人は、自分が金持ちになることを期待していない一方で、宝くじの当選確率は誰にでも平等であるということである。よって、才覚と努力でのし上がれる人は宝くじを買わず、そういう機会のない人が宝くじを買うことになる。これは観察事実と斉合的である。また、共通しているのは、「自分が金を得るためなら、他人のお金が減ろうとも社会全体の余剰が減ろうとも構わない」という考え方である。どちらも経済学的には意味が通る。

しかし、それだけだろうか。通常、羽振りの良い人というのは目立つものである。一方、宝くじでは、当選者の身元が開示されないので、妬みの対象が明らかでない。「3億円」という数字は、誰か他人が得るであろう数字であると同時に、自分が得るかもしれないお金でもあるので、妬みにくい。これは「無知のヴェール」である。もちろん、事後的には誰か当たった人がいるはずなので、そういう人を思い浮かべて妬むこともできなくはないが、宝くじというのは継続的に発売されるので、「今度こそは」という思いにかき消されてしまう。

宝くじでは、当選確率に関する情報は開示されないものの、1枚当たりの値段も、各等の本数と当選金の金額も開示されており、宝くじを買う人は、「いくらお金を出して、いくらの当選金を望むのか(「期待するのか」ではない)」を明確に意識している。一方、所得格差論議では、「金持ちからいくらのお金を奪い、その結果として、自分の懐にいくら入るのか」ということが意識されない。金持ちの数よりも貧乏人の数の方が多いので、たとえ金持ちの身ぐるみを剥いだところで、一人当たりの実入りは微々たるものである(もちろん、所得分配の不平等の度合にもよるが)。しかもその副作用として、生産性の高い金持ちが逃げ出してしまうので、結局金持ちから奪った富は一時的なものでしかなく、さらに貧乏になる。冷静に算盤を弾いてみると、意外と割に合わないかもしれないにも関わらず、合理的な意思決定に必要な情報が欠けているが故に、「金持ちから金を奪ったら自分が代わりに金持ちになれる」とか「宝くじを買ったら3億円当たる」といったように、願望に基く根拠なき楽観論が支配する。

11/25/2007

体脂肪を電池にできないものか

最近はバイオ燃料とかバイオ燃料電池とか、石油を使わず持続可能なエネルギー源に対する関心が高まっている。エネルギーには、内燃機関の燃料とするものと、熱エネルギーにするものと、電気エネルギーにするものとに大きく分類することができる。最終的に電気エネルギーを取り出すことが目的なら、敢えて熱エネルギーに変換したりせず、直接電気エネルギーを取り出すのが効率的である。そこで、バイオエタノールから燃料電池を作ろうと試みたり、汚泥を微生物に分解させて、そこから電力を取り出そうと試みるわけだが、バイオエネルギーといえば最後のフロンティアは人体だろう。

人間は、食糧を摂取してそれを脂肪という熱量の大きいエネルギーに変換することができるし、現代人の多くは体脂肪余剰なので、エネルギー源はふんだんにある。また、個人用の電気エネルギーの需要というのは人間の周辺にあるものなので、エネルギーを使う人間自身が携帯するのが効率的である。例えば、携帯電話とか携帯音楽プレイヤーとかくらいだったら電力消費も小さいし、本体にバッテリーが内蔵されているので、電力があまり安定していなくてもバッテリーというバッファーを通すことで安定化できる。懐に携帯電話を入れて充電できればクールだろう。できれば照明とか空調といったような人間がいる場所でのみ需要があるものも人間の体脂肪でまかないたいところだが、照明はともかく空調にはかなりのエネルギーを要するので、あまり現実的ではないだろう。空調服のような、人間の体だけを冷やすようなものなら、さほどエネルギーを要さないものの、現時点ではまだ実用の域には達していない。

体脂肪電池のもう一つの利点は、デジタルガジェットの電力需要と、使用者の体脂肪の量との間に相関があることである。電力消費の多い人はあまり体を動かさないので、体脂肪が多いから、そのエネルギーを使わない手はない。逆に、体をよく動かす人は体脂肪があまりつかないが、その代わり電気製品を使う暇もあまりないので、問題ない。肥満は心臓や膝に負担をかけるし、それに何よりも暑苦しくて冷房のための電力を浪費するので、体脂肪そのものを電力として消費することによって、そのような無駄を無くすという狙いもある。これなら、体脂肪を減らすために無駄な運動をする必要もない。もちろん、体脂肪の不足する人が電力を得ることを目的に食糧を大量に食べるのは無駄であり、そういう場合には最初から別の手段で燃料電池を得る方が効率的である。

体脂肪電池なら、充電も普段の食生活の延長線上に位置するので、うっかり充電し忘れたり、予備のバッテリーやACアダブターを持参するのを忘れたりするリスクを回避できる。体脂肪を電力に変換する装置さえ常時携帯するだけでよい。通常は、体脂肪を携帯する際に特に意識することはなくて、これが実用上の価値となる。また、エネルギーの充填も劣化したバッテリーの廃棄も体が勝手にやってくれるので、機械としてこれほど便利なものはない。

実は動物の体脂肪を電池にするなら、人間以外にも犬や猫や牛や豚などいろいろな動物をエネルギー源にすることも考えられるが、さすがにそれをやると動物虐待になってしまうので、「自分が使う電源は自分の体脂肪でまかなう」という方式にした方がよいだろう。それに、家畜を飼育してそこからエネルギーを取り出すくらいだったら、最初から飼料をバイオエネルギーとして用いる方が効率的である。人間の体脂肪においても実は同様で、食糧の摂取量を減らせば、身の周りのエネルギーなど簡単にまかなえてしまうものの、現状ではなかなかそういうわけにもいかないので、次善の策として、余剰の体脂肪を電池化できないものかと考えている次第である。

11/24/2007

赤福の品質管理

赤福が賞味期限を偽装したり、売れ残った商品を再利用したせいで、店頭から姿を消してしまった。しかし、それで食中毒を起こしたわけではないし、もともと人気のあるお菓子なのだから、問題点さえ解決すれば、復活はさほど難しくないのではないか。

問題なのは、店頭にある商品がいつ作られたものなのかわからないことだけである。それなら、餡を炊いたり餅を搗いたりするのを客の前で実演すればよい。さすがに駅の売店や車内販売ではできないが、デパートの地下でならできる。

また、冷凍保存しても品質に問題がないことがわかっているので、冷凍食品として通信販売やスーパーやコンビニで売ればよい。「売れ残りを冷凍して売っているのではないか」という疑問を払拭するために、「実演販売では売り切ったらおしまい。残りは冷凍食品として生産するだけなので、原理的に生ものの売れ残りは発生しない」という仕組にするとよい。

それでも不安を払拭できなければ、社内に品質管理基準を設けて内部品質監査を行い、さらにそれでもだめなら、外部監査人に意見を表明してもらえばよいが、外部監査は費用がかかるため、できれば内部監査までで済むようにしたい。

従来は、鮮度を保つため、名古屋や大阪よりも遠方では販売しないという方針を取ってきて、それによってお土産としての価値を提供してきたが、実演販売でも冷凍食品の販売でも、距離で制限をかける必要はない。そもそも名古屋や大阪のお土産として赤福を買うことができた時点で、伊勢のお土産としての付加価値はないのだから、極端な話、東京ばな奈みたいに、東京でしか買えないお菓子としても同じである。どうせ地域限定で販売するなら、儲かる市場をターゲットにする方が有利である。どうしても伊勢のお土産としたいなら、工場を実演販売店舗にして、駐車場を整備して、テーマパーク化するのがよいだろう。

11/18/2007

所得を年収で計るか時給で計るか

所得はフロー変数なので、単位時間当たりの収入で考える。サラリーマンなら、年収500万円とかで考えるだろうし、アルバイトだったら時給800円とかで考えるだろう。世間で所得格差について論じるときには、年収で考えることが多いようである。たしかにボーナス込みで考えるなら時給で考えてもあまり意味がない。そこで、年収1000万円以上だとか年収300万円だとかで比較することになる。そもそも、時間を切り売りするような仕事と、頭脳によって付加価値を創出する仕事とでは労働時間の持つ意味が違うのだが、所得がフロー変数である以上、どこかで時間を区切らなければならないのは仕方ない。所得格差を測定する上で理想的なのは生涯所得というストック変数を用いることなのだが、これではサンプルサイズがあまりに小さすぎるし、個人に紐づいたパネルデータを入手する必要があるし、それに既に死亡した人のデータしか入力できないのではあまりに役に立たないので、労働統計の数字のさまざまな限界を認識した上で、次善の策として年収といったようなフロー変数で考えるのである。

年収で比較することの欠点は、年間の労働時間が人によって異なることである。しかも、年収の高い人というのは往々にして労働時間も長いものなので、年収で所得を比較すると、時給で所得を比較したときに比べて格差が過大評価される。逆に、ろくに仕事をしない人が高い給料をもらって、身を粉にして働いている人の給料が低いと、年収ベースではさほど差があるようには見えないので、所得格差が過小評価される。しかし、仕事のできる人(時給の高い人)が長時間働いて、仕事のできない人(時給の低い人)が短時間しか働かない方が資源配分は効率的である。資源配分が効率的だと所得格差が過大評価され、資源配分が非効率的だと所得格差が過小評価される。よく「効率性と公平性との間にはトレードオフがある」と言われるが、とりあえず「効率性と見掛け上の所得格差との間にはトレードオフがある」と言うことならできる。

本当は「年収の高い人は、たとえ人的資本が他の人よりも多くとも、仕事の負荷も高いのだからそれもコントロールすべきだ」と言いたいところなのだが、仕事の負荷を直接測定することはできなくて、市場均衡から推定するしかないので、今それを引き合いに出してもあまり意味がない。

「普通の人の2倍の給料で普通の人の3倍働く人は普通の人よりも所得が高いのか」と問われれば、大抵の人は所得が高いと言うだろう。しかし、時給に換算すると普通の人の3分の2しか貰っていないのだから、むしろ「ろくに仕事をしない奴が人並の給料を貰うなんてけしからん」という論調になって然るべきである。しかし所得格差是正の目的が往々にして「ろくに仕事をしない人でも人並の暮らしをできるようにすること」である以上、それを非難しても仕方ない。むしろ、ろくに仕事をしない人でも人並の暮らしをできるようにするためには、誰かが補助してあげる必要があって、それをできるのは仕事のできる人だから、結局、仕事のできる人に、仕事のできない人の分まで働いてもらうというのが所得格差是正のための正しいやり方ということになる。そうすると、「仕事のできる人は人の2 倍の給料で人の3倍働いて、仕事のできない人は定時で帰って残業代を貰わない」という、見掛け上の所得格差が大きくなるような資源配分こそが、効率性の観点のみならず、所得格差是正の観点からも望ましいということになる。所得の再分配を行うには原資が必要である以上、所得の再分配を求めるということは直ちに、上記を意味するのである。しかし、世間一般では、「人の2倍の給料で人の3倍働く人」から「人の2倍の給料をもらっている」という理由でさらにお金を取ろうとしている。そういうことをすると労働の誘因が損われるので、所得再分配の原資が減少して、結局皆が貧乏になるだけである。

「人の3倍働く」という言葉は誇張に聞こえるかもしれないが、あながちそうでもない。頭脳労働をはじめとする創造的な仕事の世界では労働時間という概念が意味をなさない。手を動かす仕事なら職場に置いて行くことができるので、工場で8時間働くのだったら、1日の労働時間は8時間である。一方、創造的な仕事というのは24時間365日、寝ている間も潜在意識レベルで継続するものなので、1日 24時間働く人は、1日8時間しか働かない人の3倍働いているのである。仕事の創造性の度合が高くなるにつれて、計測されない労働時間が増えるので、労働統計に表れる労働時間で時給を計算すると、時給が過大評価される傾向がある。

仕事の量を労働時間でなく会社や社会への貢献度で計るなら、それこそ100倍とか1000倍くらいの開きが出る。例えばプログラマの生産性にはそれくらいの開きがあるし、プロスポーツ選手や芸能人だってそうだろう。人の1000倍の貢献をして人の2倍の給料しかもらっていない人なんて、滅私奉公の最たるものだが、会社や社会への貢献度というのは一般人にはわかりにくい一方で、見掛けの生活の羽振りの良さはわかりやすいため、妬みの対象になる。単純労働だと生産性にさほど格差が生じない一方で、頭脳労働や創造的な仕事や、多くの人に「夢」を与えるような仕事だと生産性に格差が生じるので、そういう仕事の適性のある人はより付加価値の高い仕事を志向し、そうでない人は時間を切り売りする単純労働を選ぶことになる。生産性の高い人がより多く稼ぐのは当然だし、逆に生産性が高いのに単純労働しかしなかったら、社会全体が貧しくなり、結果として生産性の低い人も貧しくなる。単に結果としての所得を平準化するのは無益なだけでなく有害でもある。

経済学者が所得格差問題に取り組むときには、単純に所得の再分配を求めるのではなく、所得格差の根本原因を解消しようと考える。典型的なのは、低所得者の生産性向上策である。しかし、実証分析の示すところによると、大人になってからの職業訓練にはあまり効果がなくて、子供の教育に対して投資する方が効果的である。この結果の示すところは残酷である。「貧乏な親が金持ちになることはない」「貧乏な親のもとに生まれると自分も貧乏になる」ということが導かれるからである。この悪循環から抜け出すためには、子供の頃から、将来自分が目指す姿を思い描き、その実現へ向けて、自発的に勉強し、自分の頭で物を考え続けなければならない。大人になってからではもう手遅れである。しかし、子供に対して「裸一貫からのし上げれ」と要求するのは酷である。

となるとやはり、少なくとも短期的には所得の再分配に頼る必要があるが、どうせ再分配するなら大人に対して再分配するのではなく、子供に対して再分配する方が投資効果が大きいのみならず、長期的には所得格差の根本原因の解消につながる。ではやはり公教育かというと、残念ながらそうはならない。公共セクターには効率性を追求する誘因がないからである。むしろ、「私立の教育機関への寄付に対して税制上の優遇措置を提供する」というやり方の方が効果的である。仕事のできる人というのは往々にして、自分でお金を使う暇もないほど忙しいものなので、自分で使い切れないほどのお金を持っている。たしかに、余っているお金は世のため人のために(「与のため」ではない)使うのが筋が良いのだが、お金を取られて、そのお金を変な使い道に使われるのは納得がいかない。せめて、「誰に寄付するか」くらいは自分で選びたい。自分が共鳴できるような教育方針を持つ教育機関に寄付すれば、市場原理によって、社会の成功者の生き方考え方が自ずから流布されることになる。寄付の対象を教育機関だけでなく、奨学金にも広げるのがよい。世の中にはいろいろな種類の奨学金があるが、その中から自分の価値観に合致する奨学金を選ぶのである。大金持ちが自分の財団を設立して「ナントカ奨学金」というのを提供することがよくあるが、そういうことができるのはほんの一握りの大金持ちだけなので、寄付という形で小口化するのである。

その結果、寄付の多い奨学金はより多くの児童生徒に学資を提供することができるし、同様に、寄付の多い教育機関は、潰れずに済む。教育のために寄付をしたくない人は税金を払えばよくて、その税は教育バウチャーに使えばよい。ただし、教育バウチャー制には「バウチャーの恩恵を受けられない教育機関の抵抗に遭う」という実務上の欠点がある。教育への寄付なら、寄付金が増えるだけであって、既存の教育機関の経営が直接脅かされる恐れがないので、その分だけ導入が容易である。

金持ちの親が自分の子供の教育にだけお金をかけると、「貧乏人の子供は貧乏」という悪循環から抜け出せない。そこで、「自分の子供に直接投資するお金は課税対象にするが、他人の子供の教育に投資するお金は課税対象にしない」とすることによって、他人の子供にも教育が行き渡るようにするのである。金持ちが率先して教育に寄付すれば、寄付した後でも自分の子供に十分な教育を受けさせることができるし、税制上の優遇措置の分だけお金に余裕が生じる。累進課税は高所得者に重くのしかかってくるものなので、金持ちに寄付させたかったら税の控除が最も効果的である。その結果として短期的に税を取り損ねても、長期的に社会全体での生産性が高まれば、税収増という形で元が取れる。

「では大人には所得の再分配を行わないのか」と言われそうだが、通常は、子供には親がいるものであり、子供の教育費用を負担するのは親なので、教育費用の節約という形で間接的に大人にも所得が移転している。「子供を持たない大人はどうするのか」という問いに対しては、「子供にお金がかからないようにしますから子供を作って下さい」としか言いようがない。若年世代から老人世代への所得移転を前提とする公的年金制度のもとでは、子供を持たない人は社会にタダ乗りすることになるので、公的年金という形で既に所得移転を受けているともいえる。この手の暗黙の所得移転というのはきちんと推定しないとなかなか表に出ないもので、それが隠れたままだと所得格差が過大評価されることになる。労働時間にせよ、社会への貢献にせよ、暗黙の所得移転にせよ、格差について論じるなら、まずこれらの判断材料を明らかにすることが先決である。「誰にどの程度の格差があるのか」を明らかにせずして、「金持ちと貧乏人がいるのはけしからん」と言うのは単なる妬みでしかないし、所得格差解消にも貢献しない。

「人の2倍の給料で人の3倍働く」人のケースに話を戻すと、他の人よりも安い時給で働くというのは、仕事のできない人に対する内部補助である。このような、選択の余地のない内部補助は、資源配分を歪ませることになる。むしろ「人の3 倍の給料で人の3倍働いてもらって、それで得たお金で教育に寄付してもらう」方が資源配分が効率的だし、しかも、長期的には格差を縮小する方向に作用する。所得格差の解消に真剣になるなら、実は今稼いでいる人にもっと給料を与える方が有効なのである。「各人の生活水準の格差」を見るなら、寄付をした後の金額を見ればよい。たくさん稼いでたくさん寄付すれば、ろくに稼がず全く寄付をしない人と比べても格差はない。社会への貢献の度合に格差があるだけである。所得再分配のための累進課税においても、寄付後の金額をベースに課税するのが当然だから、寄付に対して税の控除を認めて当然である。どういうわけか日本では「寄付の優遇」という方向に話が行かず、「金持ちを妬む」という方向に話が行く。日本で寄付が好まれないのは、「自分の裁量で寄付する先を選ぶのが気に入らない」という妬みによるものだろうかと感じる。しかし、人を妬んで足を引っ張ることによって自分が貧乏から脱出することは決してできない。

「そもそも、人の3倍働いている人が、いつまでも2倍の給料に甘んじるものなのか」という疑問はたしかにある。もし、社内でろくに仕事をしていない人に対して内部補助をしているのならば、より生産性の高い企業に転職することによってより高い賃金を得ることができるだろう。しかしあいにく、賃金というのは労働市場の需要と供給で決まるものなので、会社への貢献以上の給料をもらうことはできない一方で、貢献した分をまるまるもらうことも難しい。結局、市場均衡では「仕事のできる人ほどコストパフォーマンスが良い」ということになり、仕事のできる人に仕事が集中することになる。シャンパンタワーの如く、一番仕事のできる人に仕事が降ってきて、その人で受け切れない分の仕事が、二番目に仕事のできる人に降ってきて、さらに三番目、四番目としたたり落ちる。

生活水準の格差を問題にするなら、消費の効用についてもっと真面目に考える必要がある。所詮消費など人間の脳の処理能力によって制約される。どんな御馳走を食べようとも、味のわからない人には単なる食べものでしかないし、どんな贅沢だってしばらく続けていれば飽きるから、満足度の上で他の人と変わるところはない。どんなに稼いだって、一人の人間の脳の処理能力に大差ないのだから、実際の生活水準には大差ないのではないかと思っている。しかしもしそうだとすると、そもそも所得格差について論じる土台が崩れてしまうし、それだけでなく、「だったらわざわざそんなにあくせく働いて稼がなくてもよいではないか」という議論になってしまう。それは全くその通りで、人よりも稼いでいる人というのはとても社会に貢献しているのである。「稼いでも自分の生活水準に大差ないのなら、そんなお金など人にくれてやって、貧乏な人を助けてやればよいではないか」というのも全くその通りで、金持ちがそういうことに気づくようになれば、世の中がもっと良くなるのではないかと思う。しかしそうはいっても今それに気づいてもらうのも難しいので、次善の策として「教育に寄付するならその分は課税しません」ということにして自発的に寄付してもらうのが良いのではないかと考えている。

11/03/2007

携帯電話ボックスが欲しい

公衆電話が携帯電話に置き換わって便利になった面は多々あるが、不便になったのは、通話の機密性を確保しにくくなったことである。なにしろ、自分の周りに遮るものが何もない。電車の中で通話すると迷惑だとかいう話以前の問題として、そもそも他人が聞き耳を立てているような場所で通話するという感覚が理解できない。かつては電話ボックスという便利なものがあったが、最近の公衆電話は、建物の中にあってむき出しのものがある程度で、人に聞かれたくない通話をするときには、場所を確保するのに苦労する。携帯電話時代に即した電話ボックスを実現できないものだろうか。

通常の電話ボックスをそのまま使うのではあまり便利でない。電話ボックスの中は夏には暑いし、ピンクチラシを貼ることが物理的に可能なので、取り締まりが大変である。我々はガラスで囲まれた空間が欲しいのではなくて、通話を聞き取られず、かつ周囲の騒音を遮断して通話するという機能が欲しいに過ぎない。では、その機能を実現するための効率的な方法はないだろうか。

内と外とで音を遮断するなら、ノイズキャンセリング技術を使うのはどうだろうか。あるいはもっと安価にホワイトノイズを流すのでもよいかもしれない。電話ボックスみたいに全体を覆う必要はなくて、人間の上半身を覆う程度で十分だろう。電話をするときにはメモを取りたくなるし、PCを開きたくなることもあるだろうから、電話ボックス風よりも、空港のロビーになるような、モバイルPCを広げることのできる机みたいなものの方が使いやすいだろう。そこにホワイトノイズを流したりノイズキャンセリング機能をつけたりすると、それらしきものになるだろう。

さらに、PHSの基地局のアンテナをつけたりして電波の状態を良くするとか、携